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難問と沈黙

  夜が暗くなり始める時、塾を出て家路についた生徒が引き返してきた。 鳥が死にかけているという。 「先生、どうしたらいい?」と。 中学2年生の生徒だった。 難問に瞬時に答えるべきか、ぼくは答えなかった。 「先生、苦しそうだった。いっそ殺してあげた方がいいの?」 ぼくは、 「いや、それはしないでいい。」 と答えた。 教室管理の女性の先生が、 「かわいそうだね。でも、暗いからおうちに帰りなさい。」 と言っていた。 ぼくは難問に答えるにはどうしたらいいか、少し考えたが、そのことは忘れた。   今、トランプアメリカ大統領が、イランの標的を爆撃し、もう少し鎮圧後も、遊び玉を撃つかもしれないと。これはレイモン・アロンが東京大空襲について書いていたことで、軍隊はすぐには止まれない。感情が残る。そこまでトランプは知っている。 だがそこには慈悲が無く、自軍への配慮しかない。 大統領、国民国家の代表としては十分な心構えかもしれない。 だが、大統領は1人だけなのだ。他の人まで大統領である必要がない。 慈悲心のある兵士である方が尊敬を集める。 市民も自分の意見を持てばそれは民主主義社会なのだから、通じる。 それが民主主義の大統領制だろう。 民、民衆次第なのが、民主主義だ。 だから、難問に答えて見せるだけが業ではない。 沈黙でもいいのだ。

空飛ぶ亀のお話

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  ジブリルおじさんは言いました。 「わたしは子どもたちを見ると、天国に上る羽根をみんなに上げたいんだよ」と。 そして、こういうお話を始めました。   ある日、天国の、雲の上の神様が、地球にいるすべての鳥たちを天国に招きました。 みんな、全ての鳥です。全国、津々浦々の、世界中の鳥です。 みんな喜んで、その話をしていました。 その時、一匹の亀が、それを聞いて、 「おおい、俺も、鳥たちよ、連れて行っておくれよう」 と言いました。 そこで鳥たちは、一羽一羽、羽根を分けて上げました、亀さんに。 世界中の鳥たちの羽根です、たくさんの羽根です。 それでみんなで天国に飛んで行こうとしました。 その時亀が、 「ありがとう、鳥のみなさん!ところで神様が天国で、みなさんの名前を聞いたらどう答えますか?」 「俺は、超特急ハヤブサ号、」「わたしはナヨナヨ、ナイチンゲール」、みんな自分の名前をつけましたが、亀は、 「わたしは、皆さん全ての人のおかげで空を飛んで天国に行けるので、『みなさんすべて』という名前にしたいと思います!」 と答えて、天国にみんなで飛んで行きました。   そこでです。 天国に、空の上につくと、雲の上に着くと、神様は、あらゆる美味しいフルーツ、あらゆる妙なる音楽、あらゆる楽しいものを揃えて、鳥たちに、 「さあ、これらのものを味わっていいですよ、これは『みなさんすべて』のものですから」と言いました。 そしたら、鳥たちは、「あれ、『みなさんすべて』という名前のやつがいるぞ!ちぇっ、つまんねえ、あのフルーツ全てはあいつのものか、亀のやつ!」と怒ってしまいました。 そして鳥たちは、1枚1枚と羽根を亀から取って地上に帰っていきました。 亀は全てのフルーツを食べて、ものすごい大きな亀だったので、食べれたのですが、パンパンになってでっぷりしていたそうです。それでも、1羽の鳥だけ、ほんの小さな赤ちゃん鳥が、まだ天国に残って亀さんの傍でどうなるかなと見ていたそうです。 それで、亀が、 「もうそろそろ地球に戻りたいんだよなあ。でも、羽根がないんだけど、どうしたもんかなあ」と、赤ちゃん鳥に言うと、 「困ったね。じゃあ、ぼくが飛んでって、パパに聞いてくるよ」と。 それで...

23歳の詩

  否定(2003)   ぼくには頼るべき本棚がない ぼくには耳にしたい言葉がない ぼくは声をおぼえていない あの日のあの人の声をおぼえていない 心と体を奪われた悪鬼の骨を打ち響かせても聞こえない奥底の声 言葉はみんな壊れた みんな壊れた。     解題 凄まじい孤独と怒りを滲ませる詩だと思う。 23歳のときだけ詩人だった。 ヴェルレーヌの翻訳と漢詩の日本語訳からスタートした。 自作の詩も数篇ある。  これはその一つだ。

まじめな時期は短い方がいいか?

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   昨日は23時には寝て、4時頃に起きた。  しばらく絵を描いたりしていて、パソコン以外の時間にしていた。  パソコン以外の時間、散歩と絵の時間をいかに作るかだな。  文筆も絵も夢の世界なんだけど、ぼくは研究はフランス産の政治というディストピアだから、これは日本人にはきつ過ぎて売れない。天はぼくに絵を与えた。小学生の時は絵ばかり描いていたが、ヘタな聖闘士星矢を描いたりだ。まるで才能がなかった。  高2でエジプトに行って壁画を見て、モンゴル人の絵を描き始めた。強いインパクトがあった。  途中、哲学だけになり、病気が出て、病院で絵を描いていいと言われて絵が再開したのが25歳。19歳から6年間は絵を描かなかった。  たぶん、まじめになり過ぎない方がいい。絵も描けないほど真剣な時期は短い方がいい。

まだまだ人生アマチュア 

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  最近、ああ、もう俺は政治哲学でやっていけないんだなと思って、違う生き方を模索に、 YouTube でいろんな人の人生を見たり、散歩。 ふつう22歳でどうやって生きて行こうとなると思うんだけど、ぼくは46歳で来た。きっかけは元カノの与党幹部失脚、みたいな。   さすがに元カノがモンゴル大統領になれば、ブレインで呼んでくれる可能性が30%くらいあるから、がんばっとこ くらいの感覚で生きていたから。それが無さそうと気づいてからのショック。自分の人生、生きなきゃみたいな半年だった。 甘いよね、人生あまあま、まだまだアマチュアだ。なんとかしなきゃ!  

小学1年生の詩

こころはあたりはずれがある じかんをかけたものはわるぐちをいっちゃいけない うみをわたったようにじかんをかけた じかんはきぼう じかんはたとえ じかんはわすれちゃいけないよ けれどもわるぐちをいわれてもいいかえしちゃいけない それはいじめのはじまりなんだー。 Heart has good and bad Those which spent time must be not be teased Like passing thorough ocean, time has passed Time is hope, time is metaphor You must not forget time, but Even if you are accused you must not reply in counter That is the beginning of bullying.

同じ夢は見られるか?

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   高校生は夜中に自販機の前で夢を語り合ったりするのだろうか。そういう話を聞いたことがある。  ぼくは大学1年生のとき、夢を聞いた。語り合ったとも言えない。「政治家になります」と聞いて、「ぼくは作家になる」と言ったのは副次的な夢だった。だから、45歳までは政治哲学できた。大きな夢が挫折するまではぼくは自分の夢を見る必要がなかった。  大きな夢も、実現しないこともあるが、でも夢なんてそれでいいではないか。ぼくは、本も出せた、ライナーも書けた。奇跡は起きているが、それはモンゴル450万人を救いたい、という大きな夢ほど大きくはない夢だ。でも、「自分のことをしてください」と、それが正しい道なんだろう。夢は挫折してもいい。でも、乗り越えてどこかへは行かなきゃならない。  クロード・ポランは、レイモン・アロンのアシスタントだったと読んだ。  レイモン・アロンは、「もしあなたが最高権力者だったとしたらを考えなさい」と政治家にダメだしされたことを語っていた。  クロード・ポランは講義で、「もし私が政治権力だったら」という前置きで語り出すことがあった。しかし、「わかってもできない」「人間はどんな優れた人も社会には勝てない」ということも言っていた。  レイモン・アロンはドゴールの参謀であり、クロード・ポランはフランス国防省の顧問など、右派の保守論客である点では、やはりレイモン・アロンとの親和性はあっただろう。  ぼくは政治家になるという夢を聞いて、同じ夢を観れないかと模索したが、それはデリダに帰着してフランスへ行った。その夢語りがなかったら、ぼくはそれなりにモンゴルに行って馬に乗れたかもしれないが、じん帯をサッカーで切って、フランス行きに変更した。  それは同じ夢を見たかったからだね。 そしてそこに絵が生まれた。

幽霊の時間と歓待 -Democratie, デモクラシーの問いを拓く-(2014年地下大学レジュメ;部分)

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  地下大学、2014年6月2日             東和史   幽霊の時間と歓待 - Democratie, デモクラシーの問いを拓く-   [Enter the Ghost, exit the Ghost, re-enter the Ghost.] ,Hamlet   デリダの『マルクスの亡霊たち』(増田一夫訳) Spectres de Marx (以下引用、 Spectres と表記)はハムレット論でもあり、共産主義という亡霊を主にハムレットを通じて変奏する極めてデリダ独自の音と意図に満ちている。幽霊(亡霊)はどこにでも時に応じて姿を表す。殺された先王、父王の厳命としても。それをハムレットは受け入れる。     The time is out of joint: O cursed spite.   That ever I was born to set it right.  (拙訳)時間は噛み合わなくなった、呪われた悪意よ。  俺がそいつを正すために生まれたというわけか。    時間はズレてノイズを生み始めた。まるで勤務時間外にもやってくる仕事メールのように、亡霊は好きなときに顔を出す。あるいは時間の裂け目であるかのような不気味なモノとして。「亡霊の出現は、束の間のものから時ならぬものであり、われわれの時間には帰属せず、時間を-少なくともわれわれの言うこの時間を-与えることはない。」( Spectres ) 「自己に対するこの非-同一性がなければ、その現在の正確さをひそかに狂わせるものがなければ、ここにはない者たちへの正義のための責任と敬意 …… 」( Spectres,p.14 )    クカテ、クカテ、ウー、ウー  子どものときにオーストラリアの友人が体を動かして歌っていた、アボリジニの歌。移民の国といわれるオーストラリアで筆者は小学校の2年生から6年生の終わりまでを過ごした。記憶と亡霊、幽霊は違うかもしれない。亡霊とは他者に関する記憶といっていいか。 アボリジニへのデモクラシー、日本人のデモクラシー、在日朝鮮人の、あるいは在日モンゴル人への etc. 「デモクラシーの概念が提起する原理的な問いの一つが、人間にと...

ある帰国者の歩み 

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   留学から帰って、それ以前の本を大量に古本屋に売り、CDも手放して、自分は変わったんだ、パリ以前の自分ではないんだ、ということを打ち消したくなかった。  そこから、1人1人、話し相手を求めた。  最初は外村先生だった。「メールに返信しない権利がある」と怒られながらも書いていた。他に誰もいなかったので。  それが2006年スタート。  ブログを書いていたら、静岡の人と親しくなり、2年半行っていた。書くことはつながることにもなった。  30歳で父が亡くなり、ぼくは南アフリカワールドカップに行こうと思ったが、母が泣いたので、もう危ないことはさせてもらえないのかと忸怩たる思いがした。 そんななかで佐渡山さんのライヴがあるとツイッターで知り、行こうか迷っていたら、出版社の先輩に、「ライヴなんて行きたかったら行きゃあいいんだよ!」と叱咤されて勇気が出て行った。  そのときも歌を聴いて、佐渡山さんに話しかけ、「コロンが、コロンが」と譫言のように最初は言ったと思う。悪魔くんの「バランガ、バランガ」みたいに。  そうやって、この人なら信頼できる、話ができるという人に会いに行った。  時には精神病院に収監されながらも、納得できる人と話をしたかった。掛け値ない言葉が聞きたかったし、喉が詰まるほど話したかった。  それは今も変わらない。  でも、ぼくは18歳の頃から変わっていない。  パリでスーパーサイヤ人になったわけじゃない。  確かに、勘違いと、帰国者にありがちな孤立と、必要なプロセスはわりと深めに味わった。  人は一周回れば、変わらないのだ。

絵の軌跡

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    初期の頃、絵を描き始めた頃だろうか、佐渡山さんがフェイスブックを始めた頃、絵をよく見ていただいて、チャットで、「完璧だと思ったらわざと崩しちゃうんだ」というようなことを相談したというか、書いた気がする。絵に余計な線を入れちゃうと。この心の歪み、ペシミズムが治るまで、2015年から、11年かかった。つまり絵は夢だから、完璧でもいい。この世界をひと時忘れられれば、誰かの役に立つということが分かるまで11年かかった。佐渡山さんの歌詞、歌がぼくには完全調和に思え、ジャズでさえあるときに余韻があり、それは心地いい。  世の中に完璧はないから、bフラットのバラードがある。それは心地いいんだ。「わざと崩した」んじゃない。自ずと遊んだんだろう。それが絵にも必要。最後の一筆。  感謝を記すことは恩が分かることで、それはいつも遅れて来る。  言っていただいた言葉の意味がすぐわからなくても、鈍い自分にも、成長と共にだんだんわかる。   ぼくも少なくとも5年間は教育の場に身を置いた人間だ。  大きな未練を研究に抱きながら、また独学を続けながら、  「3回絵を展示したら観に行きます」と外村先生にも言われている。  まだ個展は2回で、ぼくはここで少し休んでいる。  それは、心が来るのを待っている。  未練を整理して、もう始まっている絵に納得できるのを、3回目だから待っている。  

21年の述懐

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   ぼくは、25歳4月に外村先生の授業に出て、6月に捕まって病院に措置入院になった。そして、9月に後期の授業で再び外村先生の授業に出て、レポートを書いたり、夏にハガキをいただいていたので、冬にレポートを添削していただいた。その流れでメールアドレスを教えていただき、実に百科事典7巻分のぼくのメールが始まった。孤絶、話し相手がいない叫びだ。  2006年3月にメールが始まり、2026年現在も、週に1通は書いている。2007年にはぼくはフランス外資に入り、先生は東大の准教授着任。ぼくは外資を3週間でクビになり、再び東大での外村先生について行く。そして、2年半の静岡行きも。  この20年で、東京外語大非常勤講師だった外村先生は、東大の重要なポストを持つ教授になり、ぼくは初期から、姜尚中の論文で外村先生の名前が間違って引用されているのを見て、その注目度合い、ポテンシャルを感じていた。  非常に冷静で力のある人、見者だと思う。    この20年間で、ぼくが得たものは、宿痾の病、統合失調症のコントロール、糖尿病のコントロールも、目途がついたことで、杏林大学病院の以前の副医院長が、「あずまくんはわかってる。わかってるけど、できないんだなあ」と言って下さるくらいには、理解できていた。今は治せる、コントロールできると思う。  つまり、ぼくは2005年に捕まり、21年間の医学者たちとの対話を、歴史学と生活指導の外村先生のおかげで乗り切り、現在わりと自由の身だ。  このメリットを発揮すべき時だ。