幽霊の時間と歓待 -Democratie, デモクラシーの問いを拓く-(2014年地下大学レジュメ;部分)

 

地下大学、2014年6月2日             東和史

 

幽霊の時間と歓待 Democratie, デモクラシーの問いを拓く-

 [Enter the Ghost, exit the Ghost, re-enter the Ghost.] ,Hamlet

 

デリダの『マルクスの亡霊たち』(増田一夫訳)Spectres de Marx(以下引用、Spectresと表記)はハムレット論でもあり、共産主義という亡霊を主にハムレットを通じて変奏する極めてデリダ独自の音と意図に満ちている。幽霊(亡霊)はどこにでも時に応じて姿を表す。殺された先王、父王の厳命としても。それをハムレットは受け入れる。

 

 The time is out of joint: O cursed spite.

  That ever I was born to set it right.

 (拙訳)時間は噛み合わなくなった、呪われた悪意よ。

 俺がそいつを正すために生まれたというわけか。

 

 時間はズレてノイズを生み始めた。まるで勤務時間外にもやってくる仕事メールのように、亡霊は好きなときに顔を出す。あるいは時間の裂け目であるかのような不気味なモノとして。「亡霊の出現は、束の間のものから時ならぬものであり、われわれの時間には帰属せず、時間を-少なくともわれわれの言うこの時間を-与えることはない。」(Spectres

「自己に対するこの非-同一性がなければ、その現在の正確さをひそかに狂わせるものがなければ、ここにはない者たちへの正義のための責任と敬意……」(Spectres,p.14

 

 クカテ、クカテ、ウー、ウー

 子どものときにオーストラリアの友人が体を動かして歌っていた、アボリジニの歌。移民の国といわれるオーストラリアで筆者は小学校の2年生から6年生の終わりまでを過ごした。記憶と亡霊、幽霊は違うかもしれない。亡霊とは他者に関する記憶といっていいか。

アボリジニへのデモクラシー、日本人のデモクラシー、在日朝鮮人の、あるいは在日モンゴル人へのetc.

「デモクラシーの概念が提起する原理的な問いの一つが、人間にとって他者との共-存在あるいは共同-存在は本質的なものかという問いであり、どのように共に在ることができるかという問いだからである。」(「デリダ/ランシエール」、松葉祥一)

松葉氏の上記文章に、「移民・幽霊・神」という刺激的な一節がある。愛にもエコノミーがあるといったのはレヴィナスだったが、デモクラシーにも「計算可能な法と計算不可能な正義」がある、つまり、ランシエールがデリダの有名な「条件なき歓待」に対して持ち出すのは、条件付きの歓待、計算、即ち政治的なそれである。

 それに対して、デリダの共に苦しむこと、「共苦」は歓待(倫理)と表裏一体である。

「デモクラシーを無限大に拡大することは、デモクラシーをいかなる相互性もありえないような地点にまで拡大することに他ならない」(ランシエール)

 

民主主義とは、声なき声、見えない人たちの声を聴くこと、見えるようにすることに他ならない。「デモクラシーとはこうした言葉を語らないはずの人々が語り始めることにほかならないことである。」(松葉祥一)

どこの社会、会社、学校などでも、そこから外へ、見えないものを見えるように奮闘している人びとはいるようだ。しかし、当の「見えない側」の人間が、何か場違いなことを言いながら、しゃあしゃあとしている方がなんだか、難しい。社会的排除、差別の問題。

Cf. 移民・幽霊・神(『岩波講座 政治哲学5 理性の両義性)p.127148,2014,岩波書店)




 

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