渋谷毅の音 

 

  


 

 メロディに乗る時、

 おもむろに

 横槍を払う下の音。

 運命が動き出す前に、

 周到に、

 (気づいている)

 と。

 

 刃先を払う弓の流れ。 

 達人がいる。

 全てがなめらかで、

 演者の名さえ忘れるような音の連なり。

20年の臥薪嘗胆に響き、

 創(きず)痕を潤す。

 労苦を融かしてゆく。

 

 いい意味で苛立っていた。渋谷毅にぶち当たった。わかろうとすれば潰される。独り相撲が始まった。震撼や事件ならまだよかった。音楽批評自体が崩れ落ち廃業したようだ。ライターではなく、リスナーになった。ライヴに来てらした女性が、「涙を流しながら聴いていました」と。それしかない。

あるいは非日常の日常化としてのCD。感情における言葉の無力。

かろみ。おもむろに流れ出す素晴らしいメロディ。ほつりほつりと解れていく。そこに木像菩薩のいるような周到さ。

 渋谷さんのピアノに自分の全思考が引き出され、反映され、その先のわからないところまで音に導かれた。蓮が浮かんでいるようなイメージが見えた。池に浮かんだ蓮の上に雨が降っているんだけど、春で温かいような。池に蓮がいくつか浮かんで、池の波紋が蓮を揺らしているイメージ。展示していた自分の絵も、Recht, rechtレヒト、レヒトとドイツ語で語り始めた。

 

 終演後、黙って演奏を噛みしめて帰るのが正解のところを、あえてこの世に自分を存在させた。存在しないと存在できない。

渋谷毅さんに話しかけるときほど、場違いでいいと思ったことはない。「雲上人です、こんなピアノは、聴いたことない」

と絶句すると、

「へたなピアノですみません」とサラッとおっしゃった。

そこにまぎれもない渋谷さんがいるという気がした。

 

 半径2メートルに入らないとマギステルの苦渋までは聴けない。高円寺グッドマンの客席でぜひ。

 

 

 

 

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