大人の自覚

 2014年の地下大学で、音楽評論の東琢磨さんと対談という形でイベントをさせていただき、でも、本当の意味で深部まで、ひがしさんと出会えたのか、ぼくは今は分からない。むしろ12年経った今、本音の自分が、地金が出ているのか、それとも隠蔽を生きているのか。人が出会うというのはそんなに簡単じゃないという自覚が今はある。あの対談は今思えば上っ面だった気もする。平井玄とは足尾鉱山の地域、反骨、徹底抵抗があるとは思う。それと住友商事の会社員の息子である自分が広島の地金を出しても、交流は続かなかった。そこのリアリティが逆に今、面白く、重要だという気がする。出会えなさの階級性だろうか。

 子孫ができると、躓くというか、守る。そこで運動、永久革命は終わる。妥協、生存が始まる。死ぬまで闘わない、生きるためのみにたたかう。そのときに、見知らぬ他者を踏み潰すことを計算に入れる。感情を処理し始める。面の皮は厚くなる。それが生き続けることにつながる。

 「私が育てた羊を私は革命のために無償で供出しない」という自覚がフランス革命を止めた。私有財産の守護。それは、イギリスの自由の根幹だ。日本帝国主義は供出させた。理性は来なかったが、原爆が落ちた。それで理性が戻った。戦いは終わった。

 文化・歴史の違いだとは思う。

 押し活から統一教会まで、どうしたら金が止まるか?理性、ふと貢いでいる自分を自覚した時、自分が何なのか見える。見たくない自分がまずいる。

「太陽も死も見続けることはできない」というが、自分を観ることはもっと苛烈だ。

自分さえ見ないでいいなら何でもいいとまでなる。

「何言ってるんですか?最高ですよ!」

の論理。

それは高度成長の終わりにやってきた。

バブルとオウム真理教。

なんでも可能な富は凋落に緩やかに堕ちて行った。

 「どんなときも どんなときも ぼくがぼくらしくあるために 好きなことは好きと 言える気持ち 大事にしたい」

90年代槇原敬之の歌の頃は、自分を見失いそうになるほどの富が日本人のある層を襲い、そして「最高」になるために、セクトは富を蓄え、その資本もバカにならない科学力を持った時に、鬱屈が地下鉄サリン事件になった。

いくら「最高」と言い続けても階級制社会だ。

 残念ながら、「好きならなんでも許される社会」ではない。それが分かったら大人だ。山上の場合、「憎悪ならば殺していい、社会正義だ」の構造。天命だと。

思うのは勝手だが、実行するとそれは他者の命を奪うことになる。

極悪人なら殺していいか?安倍ならいいか?

「汝殺すなかれ」の言葉は生きている。

でも、自分が無視された、発砲しても演説を続けたときの安倍への怒りがスリーポイントシューターの冷静な射撃を呼んだ。安倍は死んだ。

安倍としては演説中に何が起きても、主観は興奮状態だ。安倍が演説を止める理性が無かったことに安倍の罪はない。

やはり殺すのはよくない、という穏当な考えに戻る。

 大人に戻ることが唯一の答えではないか。

 

 

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